興福寺の歴史
天智天皇8年に(669)藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置するために、夫人の鏡女王が、京都山科の私邸に建てた「山科寺」を始まりとする。その後飛鳥廐坂の地に寺を移し「廐坂寺」と称した。都が平城京へ移されるに及んで、平城京左京三条七坊のこの地に移し「興福寺」と名付けた。この創建の年を和銅3年(710)とする。その後天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備された。奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられた。特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになった。平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになった。鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任にあたった。幕府による宗教政策が厳しかった江戸時代には21000石余の朱印が与えられた。明治時代始めの神仏分離令・廃仏毀釈・社寺上地命などで興福寺は荒れたが、その後の努力で復興し、新しい興福寺の歴史を刻んでいる。

興福寺の宗教
法相宗の大本山。法相宗は別名を唯識宗ともいう。西遊記で知られる中国唐の玄弉三蔵がインドから伝えた唯識論を弟子の慈恩大師が大成した。日本には何度か伝えられたが、興福寺の法相宗は奈良時代に玄ムが伝えた。解深密経を本源とし瑜伽論に所依し、唯識論を宗学とする。

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