西大寺の歴史
西大寺の創建は奈良時代の天平宝字8年(764)に称徳天皇が藤原仲麻呂の反乱の鎮圧を目的に鎮護国家と平和祈願のために、7尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まる。造営は翌天平神護元年(765)からほぼ宝亀末年(780)頃まで続けられたと考えられるが、創建当初の境域は東西11町、南北7町、面積31町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に百十数宇の堂舎が甍を並べていた。文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺であった。その後平安時代に再三の災害に遭い衰退したが、鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊上人がこの寺に入って復興に当り、創建当初とは面目を新たにした密・律兼修の根本道場として伽藍を整備された。現在の西大寺の伽藍はほぼこの頃のプランを伝えている。

西大寺の宗教
真言律宗の総本山。西大寺は奈良時代の天平宝字8年(764)に称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために、7尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まった。平安時代に再三の災害に遭い衰退したが、鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊上人がこの寺に入って復興に当り、創建当初とは面目を新たにした密・律兼修の修行道場として伽藍を整備された。興正菩薩は鎌倉時代の南都の四律匠の一人で、当時おろそかになっていた戒律の教えを最も尊重し、かつ最も行動的に興した人である。現在の西大寺は真言律宗の総本山として叡尊上人以来の法燈を伝えており、寺宝や宗教的行事によくその寺格と由緒をしのぶことができる。

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