吉野神宮の歴史
吉野神宮は、吉野町大字吉野山小字丈六に鎮座し、後醍醐天皇を奉祀する別表神社(旧官幣大社、現神社本庁管轄下)である。吉野山は、後醍醐天皇が文保2年(1318)の践祚以来天皇親政を志し、北条氏を倒して建武中興を成就したが、足利尊氏の造反にあい延元元年(1336)12月吉野山に遷幸され、吉野朝廷(京都の北朝に対して、南朝という)を樹立したところとして知られる。吉野朝廷は、一時期「吉水院」に行宮(皇居)を定めるが、のちに、「実城寺」を行宮と定め、「金輪王寺」と改称。「吉水院」は、明治維新の神仏分離令の際、廃寺となり、明治8年(1875)「吉水神社」と改称。これは、明治7年に、天皇親政復古を目指した建武中興の理想が成就されたとして、「後醍醐天皇社」という名称のもとで創立が許可され、天皇ゆかりの旧吉水院内に祀ったことによるものと考えられる。しかし、後醍醐天皇の奉祀神社の創建を一寺院を改称して充てるのは、不見識であるとされ、明治22年(1889)6月、「吉野宮」として新たな社殿を創立し、官幣中社に列された。明治25年(1892)の社殿完成にともなって、後村上天皇の勅命により吉水院(吉水神社)に奉安されていた、後醍醐天皇の御宸像が奉遷され、明治34年(1901)には、「官幣大社」に昇格し、さらに、大正7年(1918)には、神宮の号を奉称して「吉野神宮」と改称された。

吉野神宮の信仰
吉野神宮は、第九十六代後醍醐天皇を祭神とする。明治25年(1892)社殿が竣工、後村上天皇が御自ら刻まれたと伝えられる後醍醐天皇の尊像が吉水神社から移されて御神体とされた。従って、後醍醐天皇の御霊をお祀りする歴史は650有余年の昔に遡る。後醍醐天皇は御幼少の頃より学問の研鑚に御心を注がれ、また歌道など文化面にも深く御修養をお積みになられた。さらに真言・天台・禅宗などの奥義も極められたと伝えられている。このような尊い御神霊をお祀りする吉野神宮への参拝は、御祭神の広大無辺な御神徳をいただかれることになるであろう。

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